リーガルリリーBa.海の部屋
「第二十五回:愛をこめて」
あなたに聞いてほしい話があります。
もうお気づきでしょうが、地球から、日本から、東京タワーが消えましたね。
あれは私の仕業なのです。
地球との餞別代りに引っこ抜いてここまで持ってきてしまいました。
あなたが大好きだったのは十分承知していましたが、だからこそかもしれません。
他には何もいりませんでした。持て余すに違いないので。
宇宙に逃亡を図った経緯としては「サターンリターンにまんまと踊らされた」とでも言っておきましょう。
今まで一人使うあてもなくこつこつと貯めてきた幸せでしたが、あなたに出会ってからそれに糸目をつけるのをすっかり忘れて使い込んでしまいました。おかげで何物にも代えがたい日々が生まれ、すくすくと愛が育ちました。けれど遂に底を尽きたあの時、私は衝動的にかなりの幸せを前借りしてしまったのです。我ながら謹厳実直な男だと思っていたので、すぐに返す目途が立つだろうと甘く見ていましたが、虫のいい話です。それからというもの、謹厳実直な男はどこへやら、あなたと温かい毛布に包まるだけの日々を送ってきました。けれど心の中では「今ならまだ少し無理をすれば」「明日には耳を揃えて返してしまおう」なんて思っていたのです。毎日です。そしてこれっぽっちになった幸せと鏡に映る怠惰な男をみてようやく目が覚めました。
もちろん返す当てはありません。数年後の土星回帰によってそれがどう清算されるのかも分かりませんでしたが、私はそのことで待ち受ける未知の制裁(制裁であることは確信していました。)をひどく恐れたのです。
ならばいっそのこと土星の軌道を無理やりにでも手繰り寄せ、悪いことを全部今すぐ受けてしまえばいい。一年、一日、いや一秒でも早く、また幸せに溺れてしまう前に何もかも手放してしまいたいと、そう思うようになりました。
なので先程は宇宙への逃亡と言いましたが、正確に言えば土星が回帰する前にこちらから出向いてやろう、ということです。なんという言葉が適切なのかは私にもよく分かりませんが、「自首」が近いかもしれません。宇宙への「自首の旅」ということになります。馬鹿な話ですが、そうでもすれば相手方に少しばかりこの誠意が伝わるのではないかと、一刻も早く元通りの平穏、堅実な生活に戻れるかもしれないと、そう思ったのです。
ですがどちらにせよ東京タワーを無断で持ってきてしまったので、もうそちらに戻ることはできないでしょうね。
そしてこの旅もそろそろ終わろうとしています。
前置きはこれくらいにして、ここからがあなたに言いたかった話です。
軌道を頼りにぐんぐんと進んで、遂に土星が見えたというその時、私はあまりに圧倒的な大きさと堂々たる姿にしばらく近寄ることができませんでした。喜びか敬愛か、恐怖か怒りか、はたまた絶望か。今まで芽生えた強烈なものたちをも一瞬のうちにとび越えてしまうような、そんな気持ちになりました。
そしてなぜだか、あなたの小さな部屋を思い出したのです。小さな部屋の小さな棚の上にある、一枚のレコードのことです。それも、ノイズがひどくすぐに針がとんでしまうやつを。
そのことについて考えていたら、これまたなぜだか、土星の環に、この手に持っている東京タワーを逆さまに突き立ててみたいという衝動に駆られました。レコードに針を落とすみたいに、優しく落としたらどうなるのだろうと。そんな好奇心によって、ようやく土星に向かって近づき始めたのです。
目の前まで来た土星の環は想像していたものよりもずっと鋭利で、レコードというよりもピザカッターに近いものでした。なぜ私が遠くの星にいてまでも、迷信めいた幸せの清算を、この星の回帰を恐れていたのか、今ならよくわかります。絶望の先に安堵があることも。つまり、あまりに圧倒的すぎる土星というものを前にしたとき、勝負事なんて一切ないはずなのに明らかな「負け」を自認したのです。何をどう取っても、何処をどう取っても負け、それは死を覚悟したといっても大げさではありませんでした。けれど、そう感じたのはほんの一瞬で、その一瞬の絶望を通り過ぎると自分でもおかしいくらいに安堵していたのです。ホラー映画で笑ってしまうあなたはこんな気持ちだったのでしょう。もしかしたら死ぬことは安堵とかなり近しいものなのかもしれませんね。
そして私は一切の釈明をしないことに決めました。何もかも手放してここへ来たものの、これから先の人生あなたすらいない地でこの真っ赤なお土産片手にどう生きろというのか、今になって気が付いたのです。私の旅はここで終わりです。実直で、潔癖で臆病で、そんな私の最後にふさわしい曲をどうか聴かせてください。広がり続ける暗闇の中に浮かぶ小さな世界の真理を教えてください。
もちろん宇宙で音が響き渡る何てことはないでしょうが、最後の希望を持って、この右手で真っ赤な針を土星の環にそっと落としました。
目を閉じるとしばらくの間、ジーというノイズが鳴りました。きっと無数の塵や氷が針を通過する音でしょう。心地よさはまさにあなたの小さな部屋で聴いたあのノイズと同じです。
その時、軽快なピアノや金物の音が聞こえ始めたのです。私は驚き、その徐々に大きくなる音に耳を澄ませていると、男の声が「L」と発音しました。
信じられないかもしれませんがNat King Coleの「L-O-V-E」が流れたのです!
それからもどんどんと音は大きくなり、耳を劈くようなトランペットが宇宙一体に響き渡りました!もしも地球に届いていたら、その時のことを詳しく教えてほしいくらいです。
何度も何度も、繰り返し流れています。サターンリターンに踊らされてここまで来てしまった私でしたが、今はサターン、この土星で、しかも響き渡る愛の歌なんかで踊っているのです。その事実が妙に面白くて、シュールで、とにかくあなたに伝えたいと思いました。
私は今、愛に怯えて、愛に踊らされています。
そして明日にはここを出てあなたのもとへ向かいます。
怖いものはもう何もありません。
愛をこめて。
追伸、
起こった出来事をそのまま書き起こしてしまったので分かりにくいところも多くあるかと思います。あなたも知っているようにこんな私ですから、どうぞ咎めないでください。
海 (2022.09.09更新)
-
「第二十五回:愛をこめて」
-
「第二十四回:skin」
-
「第二十三回:初夏、爆ぜる」
-
「第二十二回:ばらの花」
-
「第二十一回:City Lights」
-
「第二十回:たまらない」
-
「第十九回:cell」
-
「第十八回:生業として」
-
「第十七回:何もかも憂鬱な夜にはスープのことばかり考えて暮らした。」
-
「第十六回:李の季節」
-
「第十五回:整理番号0番、Kの夜」
-
「第十四回:雨男のバイブル」
-
「第十三回:デロリアンに乗って」
-
「第十二回:抱擁」
-
「第十一回:金麦、時々黒ラベル」
-
「第十回:そして春が終わる」
-
「第九回:青色の街、トーキョー」
-
「第八回:生活のすべて」
-
「第七回:世界の絡繰」
-
「第六回:ロマンス、ブルース、ランデブー(雑記)」
-
「第五回:キリンの模様」
-
「第四回:一切合切」
-
「第三回:愛おしい(いと おいしい)時間」
-
「第二回:キッチン」
-
「第一回:猫と金柑」