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「第二十回:たまらない」

海の部屋_第二十回_掲載写真

冬の夜に似合う音楽がこの世界には溢れすぎているおかげで、こんなに寒いのにまた一つ手前の駅で降りてしまった。

お気に入りの歩道橋に登ると坂道を走る車のテールランプが丁度月に向かって縦に並んだ。
安定した梯子のように真っ直ぐ伸びる光を眺めながら、もしも私がかぐや姫だったら今日が月へ帰る日だったのかもしれない、なんて考える。生憎そんな大層な御身分ではないので、金魚の待つ真っ暗な1Kに帰るだけなのだけれど。

月へと向かう光は絶え間なく動くので、これじゃあ梯子じゃなくてエスカレーターだ、と気づいた瞬間に月への梯子はただのテールランプに戻った。きっとエスカレーターは私にとってリアルすぎたのだろう。


家に着く頃には鍵を鍵穴に挿すことすら手こずる程に身体が芯から冷え切っていて、久々に湯船にお湯を溜める事にした。
たっぷりと張ったお湯の中で冷えた身体は勢いよく沈み、浴槽の床に当たった途端にゴンっと鈍い音が鳴りそうなくらいに重く、硬くなっていたことに気づく。けれどもしばらくすると、今度は芯まで温まって筋肉の解けた身体がぷかぷかと浮かび出すのだ。
きっと自分の身体はソーセージと何ら変わりないのだろうと少しだけ悲しくなった。


水というのはとても不思議で、触れた瞬間は自分との境界線をはっきりと感じるのにいつの間にかそれが曖昧になり、あたかもずっと水中に居たかのような気持ちになる。
それはきっと互いの持つ熱が緩やかに歩み寄るからかもしれないし、私の名前が"海,,だからかもしれない。

思春期になり自分の存在を見つめ直す度に、どうして母は私にこんな大きく荒々しい名前を付けたのだろう、とずっと不思議だった。私はもっと小さくて可愛い名前が欲しかったのだ。花ならなんでもよかったし、肉眼で見て小さく煌めくならばどんな星でもよかった。
けれど私は陸と陸を繋ぎ、陸と空をも繋ぐような広く深い水、そしてたくさんの生物の棲家となるような水だったのだ。広い心と深い愛を持つように、だなんてたまったもんじゃない、と思っていた。
そんな私も気づけば自分の名前を誇らしく思えるくらいには成長していた。それはきっと母が名付けた時以上の価値を自分で見つけることができたからだろう。
花のように小さく可憐ではないけれど、私の中で絶妙なバランスを保ちながら生きる生物達を繋ぎ、それらを時に羊水の様に優しく包み込むことが私の役目なのかもしれないと。


そんなことを考えているうちにお湯はぬるくなり、上がったばかりの体温すらも奪おうとした。浴槽の栓を抜きぬるくなった水を少しずつ逃すと、それと丁度同じ速さで身体の表面が水面を破った。どんどん重くなる身体は内側をぎゅうっと圧迫しながら少しずつ空気と触れる面積を増やしていく。
ああ、そうか私はこんな重いものを毎日必死に動かしているんだ、と思った。
今までこんな重いものを抱えて、そしてこれからも抱えて生きていくのだろうと。

毎日朝風呂に入る彼女を想いこの事実を知って絶望しないだろうかと、少しだけ不安になった。



海 (2021.12.06更新)




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