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「第十七回:何もかも憂鬱な夜にはスープのことばかり考えて暮らした。」

海の部屋_第十七回_掲載写真

腸を温めると幸せホルモンがでるらしい。
このことをなんとなく認識してからというもの、心がザラつき寝つきの悪い夜はスープを作ることにしたのだ。

身体の仕組みについてはよく知らないけれど、確かに温かいスープやミルクを飲み干す頃にはいつも身体だけでなく心までもが温まった。
満足感と幸福感で一杯になった湯たんぽはどんどん拡張し、やがて手の形になってお腹を内側から優しくさする。そして次の瞬間にその手はお腹を飛び出して脳に移り、張り詰めてこんがらがった意識をいとも簡単に解いていくのだ。


こんな調子なので、スープ自体には何のこだわりも特徴もない。その時冷蔵庫にあるものをコトコト煮ただけの、"本当になんてことのないスープ,,でいいのだ。
とは言え、冷蔵庫にあるものなんて大体決まっていて、たまねぎ、じゃがいも、たまにきのこ。と、こんなところだろうか。

それらは火を通す時間を短くしたいので全部みじん切りにしてバターで炒め、あとは水とコンソメやら何やらを適当に入れてコトコト煮るだけ。
そしてこの合間にキッチンの椅子に腰掛け、換気扇のオレンジの灯りだけでラジオを聴いたり本を読んだりするのが一番重要な工程と言っていいだろう。鍋にかじりつきになると心配性が裏目に出て、つい掻き回しすぎてしまうからね。
実を言うと何より求めているのはこの穏やかな時間かもしれない。


最近は吉田篤弘の『それからはスープのことばかり考えて暮らした』という本を繰り返し読んでいる。なんでも、私のスープループを作り出したのはこの小説なのだから。
いつまでも読んでいたい、いっそのことこの世界に行けるのなら戻って来れなくてもいいとまで思わせてくれたその一冊には喫茶店のコースターを挟んでいて、コーヒーの染みが少しだけ付いている。

見慣れたページを愛おしくめくっていると鍋からポコポコと(一人分なのでグツグツなんて音は鳴らず)音がして、次第に玉ねぎの甘い香りやコンソメとバターがポクポクする香り、じゃがいものささやかな香りなんかが鼻を伝う。
うん、こんな夜にしては上出来だ。


キッチンの傍にいる金魚を横目にまだ少し熱いスープを丁寧に掬って口へ運ぶ。
ほろほろと崩れる度に熱を発するじゃがいもが水分を先頭に喉を通って胃に落ちると、通ってきた道を一つ一つ確認する様に上から順序よく熱を帯びていくのがわかる。
それからは溜まっていく熱と幸福を感じながら飲み干し、さっさっと歯磨きだけ済ませて布団に潜り込むのだ。
ここで肝心なのは明日の自分に詫びをいれて洗い物や何やらを全部託すこと。幸せな眠りを得られるなら安いもんでしょ?なんて言って。



海 (2021.08.26更新)




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