リーガルリリーBa.海の部屋
「第十四回:雨男のバイブル」
6月、雨がだいぶ続いたある日のテレビで気象予報士が「東京の梅雨入りはまだですが〜」と言った。そんな馬鹿な。
玄関には既に3本のビニール傘が溜まっているというのに。
自然の摂理と誰かの事情によって動くこの世界は汚れが浮き彫りになる度に雨が洗い流しては、清濁の均衡を保っている。
だとしたら今年は何かてこずっているに違いない。夏になる前に洗い流さなければならない事情がまだ残されているのだろう。
と、こんな落とし所で納得し今日こそは濡れまいと3つの中で一番綺麗な傘を持って出かけた。
雨が降った日、特に土砂降りになると必ずと言っていいほど思い出す人がいる。ビールのロング缶を持ちながらびしょ濡れで電車に乗ってきた男性の事だ。
世に言う"おじさん,,に属するその男性はあまりに大胆に雨に降られていたため申し訳なさそうに窓際に立ったが、手に持ったアルコールと相まってか周りから怪訝そうに見られていた。そして私も例外ではない。しかし手にはアルコールの他にその風貌と不釣り合いなくらい乾いた本を一冊だけ持っていた。よしもとばななの『デッドエンドの思い出』だ。きっとこの本はどうにか濡れないように持ってきたに違いない、カバーを外し角がとれた茅色のそれは彼が自身のバイブルとして大切に持っていたんだろうと言うことを容易に想像させるのであった。
その瞬間に彼と私の間に微かなシンパシーが迸り、顔の筋肉がゆっくりと解けていくのを感じた。
だからなんだってわけでもない。ただ、生きづらい世界でたった一つのバイブルがあったとしたらそれは素敵なことだと思っただけで。
まだ雨が続く日々の中で7月5日は着々と迫り来る。こんな風に足を運んでくれた全ての人にとってこの先の"拠所,,になるような一日を、気持ちばかりの贈り物を包みながら待つとしよう。
駅に着くといつのまにか睫毛に雨の珠が据わりジーンズが重くじっとりと濡れていた。
考え事をしていたからかまた上手く傘をさせなかったみたいだ。
海 (2021.07.02更新)
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「第二十五回:愛をこめて」
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「第二十四回:skin」
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「第二十三回:初夏、爆ぜる」
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「第二十二回:ばらの花」
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「第二十一回:City Lights」
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「第二十回:たまらない」
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「第十九回:cell」
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「第十八回:生業として」
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「第十七回:何もかも憂鬱な夜にはスープのことばかり考えて暮らした。」
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「第十六回:李の季節」
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「第十五回:整理番号0番、Kの夜」
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「第十四回:雨男のバイブル」
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「第十三回:デロリアンに乗って」
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「第十二回:抱擁」
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「第十一回:金麦、時々黒ラベル」
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「第十回:そして春が終わる」
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「第九回:青色の街、トーキョー」
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「第八回:生活のすべて」
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「第七回:世界の絡繰」
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「第六回:ロマンス、ブルース、ランデブー(雑記)」
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「第五回:キリンの模様」
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「第四回:一切合切」
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「第三回:愛おしい(いと おいしい)時間」
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「第二回:キッチン」
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「第一回:猫と金柑」