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「第二十三回:初夏、爆ぜる」

海の部屋_第二十三回_掲載写真

私の身体がまだ鮮明に覚えている夏の日のこと。
夕方がそのまま差し込む浴室で軽くシャワーを浴びて、さらりとした素肌に薄く白い布を纏った。
それは可視化された「奥ゆかしさ」だったかもしれないし、もしかしたらもっと清らかで女性として大切なものだったかもしれない。
夏祭りに行く前の浴衣を着付けてもらう時間、今にも飛び出しそうな心臓をきゅっと帯で結べば、苦しくて苦しくてどうにかなってしまいそうな程に嬉しかった。


そんな私の横を風を切りながら自転車が通る。けれど切れ味が悪いのかその人の半袖は膨らんで、汗で張り付く胴体だけが浮き彫りになっていた。一瞬でも強い風が吹けばモモンガやムササビみたいに自転車ごと飛んでいってしまいそう。
ふわっと空に攫われて大きな音と火花を散らして降ってきたりして、慣れた道を歩きながらそんなことを考えて口角が緩む。
それからいつの間にか汗でうねった前髪をゆっくりと爪でなぞり、「あ、なんか今の大人みたい」
なんて思ったりした。
女子の甚平が流行っていた時に頑なに浴衣を着せたがっていた母は「浴衣は、女の子を3倍可愛くする」と言っていたが、そのいい加減な持論で言いたかったのはきっとこういう事だろう。
所作の全てに注意を払おうとすると睫毛の重さにまで気づけるのだとあの時初めて知ったのだ。


慣れない下駄で歩くいつもの公園や通学路はオブラートに包まれた様に淡く滑らかで、かえって偽物みたいにみえた。 時間と空気と音、その全てがぴったりと合いすぎていて、今日のためだけに作られた映画のセットに迷い込んでしまったような、その違和感が気持ち悪くて、けれど最高に気持ちよかったのだ。
全部はりぼてで明日には簡単に壊されたりするのかな。またしてもそんなことを考えてしまうほどに私の歩幅は小さく、到着にはかなりの時間を要したのだった。

今思えばあながち間違いではないのかもしれない。あれは確かに脆く刹那的な時間であり、この先、今でさえ私の前にはもう現れない時間なのだから。
あの頃、プラトニックな私たちの間で行われた弾まない会話の隙間は花火や太鼓、そこにある全ての音が絶妙に埋めてくれていた。
けれどそんなことにも気づかずにそれらがほぼ同時に消えた時、最後に残るのは訥々と鳴る下駄と下手くそな私の相槌だけだったように思う。
それでも誰かと歩く長い帰り道に、今日くらいは歩幅が小さくてよかったと思ったし、息苦しい帯のことも心をしっかり身体に結びつけてくれていてよかったと思っていた。


これだけ鮮明に覚えていても、
「あの頃」と今とが直線で繋がっているとわかっていても、その二つはどこまでも平行で決して交わらない。
記憶はあるのにどこか他人行儀で、自ら踏んできた草花に思いを巡らせて平気で軽蔑できるくらいには、自分のことだと思えないでいるのだ。

それは私が意識的に思い出を改行しているからかもしれないし、そうやって思い出を汚さない様に、今を汚さない様に必死に守り抜いているからだとも思う。
もう来ないあの時間からわざと距離を置くため、何か間違う度に改行して
改行して
改行して、
新たに今を綴りはじめる。時々溜まったメモを見返して、誰の事だろうと思うくらい。
多分この先もずっとそう。


それでも時々、マスクをずらして鼻腔を伝う空気にそんな初夏の切れ端を見つけてしまうのだ。あの瞬間に戻れる条件に指を折りながら、足りない一つを見て見ぬふりして。
だって段々と心が慣れて鈍くなってしまう事に正面から向き合うよりも、平行した思い出の中で昔の私が感じていられるなら、その方がずっといい。
こんな瞬間を身体に悪いくらいずっと、これから先も過ごしていられたらと思っていた私のために私は改行してあげたいのだ。

そんな言い訳をしていると、本当に時々、随分上に追いやったはずの小さな自分が無邪気に階段を駆け降りてきて、はじまらない恋と終わりの見えない夏に胸をときめかせて自分勝手に帰って行ったりする。
その収拾に追われて今年の夏も忙しいのだろうか。
自分を振りまわすのはいつも自分自身なんだ。


海 (2022.05.30更新)




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