(株)オフィス オーガスタ 代表取締役 森川欣信
2012年 オフィス オーガスタは20周年を迎えます。
オーガスタは1992年11月2日、スタッフ3人、アーティスト杏子と言うメンバーでスタートを切りました。
渋谷区南平台にある小さな雑居ビルの4F。そこがオーガスタ誕生の地です。
今でもその場所を通ると胸がキュンとする事があります。
バービーボーイズの解散を経てソロになるリスクとプレッシャー、そのすべてを小さな肩に背負って歩き出した杏子、音楽業界はまったく未経験と言う経理兼デスクの女史、そして実は気の弱いマネージャー、会社経営とかまったく持って未経験で、音を作る事以外、ただただ無知な自分。
この先どうなるのか不安をいっぱい抱えていました。
そして気の弱いマネージャーは2年弱でドロップアウト、レコード会社のゴタゴタに巻き込まれ宙に浮いてしまった契約、どうにも歯車が上手く噛み合わず、ズブズブと行く先を阻まれ八方塞がりな時間を過ごしたのがこの南平台時代です。
でもそんな中にも奇跡のようなアーティストとの出会いがありました。
オーガスタ設立当時から僕の回りをうろうろしていた山崎まさよし、カセットテープの山に埋もれていたスガ シカオ、まだまだ小さかったその微風のようなそよぎは、やがて辺りをうずまくような風となり、COIL、あらきゆうこ、元ちとせを運んできました。
そしてその大きな風はスキマスイッチ、長澤知之、秦 基博、さかいゆうを巻き込み、大きなうねりとなりました。BELAKISSと言う新しい風も今また海を越えてやって来ています。
振り返ればその時時に素晴らしい邂逅が待ち構えていました。
それは何か見えない力が作用したようにも思えます。
その見えない力、音楽の神様みたいな存在があるとしたら、その存在が力を貸してくれたのはオーガスタの姿勢にあったのだと幾分自惚れています。
オーガスタはいつの時代も妥協せず純粋にわがままに音楽と向き合っていました。
これからもあの南平台時代を忘れずに、初心に帰り、震えるくらいの緊張感を持って、心ある音楽、誰も観た事も聴いた事も無いようなエンターテインメントをこの代官山から発信し続けて行きたく思っています。
この20年間ずっとオーガスタを応援、そして指導してくださった様々なメディアの方々、かけがえの無い友人やスタッフ達、そして何よりもオーガスタを支えてくれた大切な大切なリスナー&ファンの皆様に心から感謝を伝えたいと思います。
これからもオフィス オーガスタは新しい時代に向かって前進して行きます。
新しい風を皆様の元に届けたく思っています。
これまで同様、どうかオフィス オーガスタにご期待ください。
杏子
1992年2月 BARBEE BOYS 解散。
何かが始まることに、終わりが付きものであるというのを思い知らされ、
ミュージシャンとして、女性として、人として、この先どう進むのか。
BARBEEという大きな船から、ヒトリ大海に投げ出された思いでいました。
悲しかった。淋しかった。
プロ志向はなく、あくまでもバンドは趣味で楽しんでいたOLの私が、
プロのミュージシャンになれたのは、BARBEE BOYSと出会ってこそ。
そのBARBEE BOYSが存在しないのならば、ミュージシャンとしては、
終わりかな?
OLに戻る?何かしらの学校に行く?すごろくの一回休み的にしばらくボンヤリする?
様々な選択肢は、あるわけなのだが決定打がない。
その時にBARBEE BOYS初代ディレクターの森川氏からの「事務所やらない?」CALLが…。
今、思うと事務所の立ち上げって大変な事なのに、ナンダロ、かなりサラッとした口調で提案されたせいか、つい、うっかり「ハイ♪」と言ってしまったのを覚えてる。
のと、やっぱり、ワタシは、LIVE♪がスキっていうのを痛感していた頃だったからカモ。
そして、社長(あの頃、「恥ずかしいから、オレを社長ってよぶな!」って言ってたなぁ。)が、
「事務所の名前、【オーガスタ】にするよ。8月生まれの女の子って意味なんだ」って説明してくれた時、
その響きに、なんか美しさを感じました。
切り替えが早いのね、オンナって。
BARBEE解散の喪失感でイッパイだったくせに。
オーガスタって、名前が決まってから、会社ごっこみたいなワクワクさで、南平台の事務所の階段を4階までトントン登ったっけ。
「IMAGINEのプロモーションビデオみたいにしよう♪」って、壁を真っ白ペンキで塗っちゃって、怒られたっけ。
あれから、20年。
ヤマ、シカオ、COIL、ゆうこ、ちとせ、スキマ、長澤、ハタ坊、ゆう、BELAKISS。
素晴らしい才能のミュージシャンたち。
それと共にプロフェッショナルに徹したスタッフたちが何かの求心力に引き寄せられている現象が、オーガスタなのだと思う。
その求心力は、まさしく森川Gian欣信である。
P.S. 社長と共に一緒にオーガスタを立ち上げたスガチン。ずっとオーガスタを支えてくれてアリガトウ。…20年になるんダネ。
山崎まさよし
オーガスタ20周年に向けて。
今年私はメジャーデビュー18年目にあたり上京してから20年経つ。
なのでなのでデビュー前の下積み時代を含めて考えるとすっごい近くでオーガスタを見てきたことになる。
すっごく近すぎて見えないこともあったかもしれないが、いやはやおめでとうござる。
ある種他者に誤解を招きそうなこの業界で20年続くには恐らく要因がある。(誤解というのは親類に仕事の説明がしづらい、ちょっとチャラい、とかである)それを考えてみたいと思う。
よく創業うん十年と言われる老舗の「頑固」「こだわり」「若女将」というイメージをオーガスタに当てはめてみよう。
たしかに社長は頑固なイメージがあるな。そしてその頑固故のこだわりは恐らく社員に受け継がれていっているのだろう。
そして若女将の杏子である。今年は杏子さんもソロ20周年。ここでひとつ和服でお出迎えなんていかがなものだろう。
プロダクション事務所は基本的に音楽とイメージとそれにまつわる商品を手がけている(と思う)。
創業ウン十年の老舗のウリは「饅頭」「温泉」「せんべい」などと様々である。プロダクションで言うところのウリはアーティストということになるのだろうが、どうもしっくりせんな~。
まあとにかく「味」を守るということなのだろう。
「味」とは恐らく才能、歌声、おもろさ、酒好きか、とかかな。その味を損なわずに守る。これは会社が大きくなるにつれて凄く難しい事だ。
そしてやはり忘れてはならないのが「お客さん」である。
その老舗旅館に固定客がつくように、オーガスタを見続けてくれたファンの存在は非常に大きい。
20年という年月は老舗には遠く及ばないが、それでもこの移り変わりの激しい業界で凄いものだと思う。
他人事のようにこの原稿を書いてみたが私もびっくりしているのである。
あと社長がゴルフをしないのも要因の一つではないだろうか。
COIL
よく、10年一昔とはいうが、では、20年はどうなんだろうか。
あたりまえのことではあるが、生まれたばかりの赤ん坊が成人し、酒やタバコをのみだした者たちも、そろそろ体のことを気にかける不惑四十の初老といわれるようになり、脂ののったバリバリの働き盛りが、ちょっとまえなら定年退職し静かに老後を迎える歳となる。
駅はできるわ、道路は通るは、街は変わるわ、ツリーは建つわ。
携帯、パソコン、インターネットは世にはびこるわ...。
20年という歳月は、人や物を変えてしまうには充分な時間である。
さて、今年、オーガスタは20周年を迎えるのだそうだ。
いやはやなんとも、おめでたいことである 。
とはいえ、ことさら20周年ウンヌンするまでもなく、18年目であろうが19年目であろうが、同じように素晴らしい一年であったハズであり、これからもオーガスタは変わらずに続いていくであろうと信じている者にとって、これは単なる経過点の目印のひとつにすぎないので、あまりおおげさにならぬよう、そこはかとなくさりげなく、アンビエントにお祝いしたい気持ちなのである。おめ。
ちなみに、40歳でオーガスタを起ち上げた社長も、今年還暦を迎える。
論語に「六十にして耳順う」とあるが、本来の意味は、「人間、六十歳にもなれば、まわりの意見にイライラすることもなく、素直に聞けるようになるじゃろう」なのだが、彼にはまったくあてはまらない。むしろ真逆か。
幼い頃から、ビートルズの音に触れ続けているその耳に、いつまでも周りの者たちを従わせてもらいたいものである。
とにもかくにも、とどのつまりは、オフィス オーガスタ20周年オメデトウ~!
イエ~イ!!!
20周年おめでとう!と言葉で言えば簡単ではございますが、この移り変わりが早い世の中(音楽含め)20年ですってよ。
私事にはなりますが、僕の20年前といえば仕事もせずにただプラプラとしていましたよ(多分サダもね)
その時にオーガスタは始まってたのですね~そんなことも知らずに6年経過、プラプラしてたとはいえ、音楽は
まあまあ真面目にやってたりしました。そんな僕らがオーガスタに入るきっかけとなったのは、サダがデモテープを
色々なところに送り、それを聴いてぼくらを気に入ってくれた当時、T社のディレクターだったY氏が、
オーガスタアーティストの出演していたラジオ番組の出待ちをして、事務所スタッフにデモテープを渡したのが始まりです。
その渡したデモテープをスタッフは律儀にも社長に手渡してくれたのでした。
音源を聴いた社長から連絡をいただき、後日合う事になり、
待ち合わせにやってきたその風貌は、体は大きく、恐ろしく強面…。やばい事務所なんじゃないか?
と心で思いつつ、ビートルズや音楽の話しが進んでいくにつれ子供のような表情で楽しそうに話す社長が今でも想い浮かびます。
そんなわけで、僕らはめでたくオーガスタに入る事になりました。
あれから14年、最初に出会った時と変わりない社長がいて、そのスピリッツは、オーガスタ全体に行き届いています。
そんな場所で、本当に好き勝手に音楽ををつくらせてもらって感謝しています。
僕は2002年に体調を崩し、しばらく休養して活動を再開しましたが、また体調をくずし、今は制限しながら活動をしています。
今でもここで好きな音楽を続けられているのは、COILのサダやこのオーガスタのおかげです。(なんか感謝状みたいですんません)
てか、所属アーティスト含めスタッフ&社長と、本当にすごい事務所なんだぜー!
この先、30周年、40、50、60、70、80、90,100周年、きっと今と変わらないオーガスタがあると思います(全員入れ替わってるな…)
まだまだ通過点、とりあえず20周年おめでとうございます!
あらきゆうこ
20周年かぁ。 20年何かが続くっていうのはすごいことなのかな?まぁ、何が続いてるかによるかもね。
オーガスタは杏子さんに始まり、山さん、シカオちゃん、COIL、私、ちぃ、スキマ、長澤くん、秦くん、ゆうくん、と続いてる。
なんだろうな、どう言ったらいいのかわからないんだけど、オーガスタにはずっと変わらない何かがあるような気がする。
20年前。 私は18歳。 鳥取県境港市から地元の高校を卒業して上京してきた。 ヤマハ音楽院に3年間通い、卒業後一年間ウエイトレスをしてヤマハ音楽院のパーカッション講師になった。その頃には少しずつドラマーとしての活動をしていて、ある時、鍵盤の森俊之さんに出会い、シカオちゃんのバンドに誘ってもらった。
それが私とオーガスタの始まり。
ライブの時に現れるオーガスタ森川社長。
少し仲良くなってきた頃、どこか事務所に所属しているのか、と聞いてきた。あれは今にしてみればホントに何気ない質問だったと思う。
私はその質問への返事の変わりに、"オーガスタに入りたい" と言った。厳密に言うと、"なに?社長? 面倒見てくれるの?" と。(若かったの~。ゆるして~(#^.^#))
実はその頃、別の事務所からも誘われてて、どっちがいいかな~と悩んでいた。(なんかずうずうしくてすいません。) オーガスタがいいっ! と心が決まったのは、何というか、社長の引力があったから。もちろん社長がムリに引っ張ってるのではなくて、、うーん、、、引力。(後に私がプラスチックオノバンドをやることになったことを考えると相互の引力があったんだと信じたい)
ここにいたいと思わせる何かを社長が持ってた、という感じ。
あ、あと、社員のみんなが明るかった!明るいのがいい!
20年間変わらない何か、というのは社長の存在かも。
あと、そこにいる人々の明るさ。
それから杏子さんの優しさも20年間変わらない。ドラマーなのにオーガスタ?というナゾな状況なのに会った時から今までずっとかわいがってくれてる。
そういうところに今のみんなが集まってる。
ステキな20周年だと思う。
感謝を込めておめでとうと言いたい。
私もうれしい♪
元ちとせ
『全然面白くない!』
慣れないスタジオでヘッドフォンをつけて、歌っていた私の耳に飛び込んできた言葉。
恐る恐る覗いてみると、デッカくてロン毛で、紺色のブレザーを着た男の人が不機嫌そうに座っていました。それからすぐ、テーブルにあったクッキーをくわえて出て行ってしまいました。
『あーあ』と落ち込むレコード会社の人を気にもしないで、『誰だったんだろう?ま、いいや。散歩してきます。』とのん気な私。スタジオの外を歩いているとさっきの人に遭遇。ペコっと頭を下げた私に『君、いつ島に帰るの?また、会おうね』と手をふってもらった。この時、何も疑わず、『この人ときっと仕事するんだろうなぁ~』と思っていたのでした。
それから間もなく8月の奄美に紺色のブレザーのデッカい人は、真っ赤なアロハシャツにビーサン、麦わら帽子と短パンでやって来ました。実家の玄関で突然、『夏の風と波の音が気持ちいいね!』と、眠り始めてしまいました。
あれから13年。思い出と出会いが濃すぎて600〜800文字じゃ足りない。。。けど!
2001年、初めてのオーキャンのステージ。リハーサルで「竜宮の使い」を歌っていたら、姫とジャイアンが泣いていました。あの涙は私の宝物です。
本番では、アンコールに山さんと「名前のない鳥」を歌いました。曲の途中、お客さんから拍手をもらい嬉しくて山さんを見たら、山さんのすっごい笑顔の向こう側に姫 シカ兄 サダさん ようちゃん ゆうこちゃんが見守ってくれている事に気がつきました。
私の東京の家族は、ずっとオーガスタファミリー。タクヤくん シンタ 長澤くん ハタ坊 ゆうが増え、スタッフの皆も一緒になって今日もくだらないお馬鹿なコトで大笑いしてます。そんな細かい事?
までにも本気で向き合い、長〜〜い打ち合わせでケンカもしながら、音楽の力と歌の力を信じて現場を引っ張ってくれています。
いつまでたっても末っ子の位置で頼りない私を、笑顔で支えてくれてるオーガスタのみんなが大好きなのはもちろん!!誇りです。
そして、この皆を大好きでいてくれるお客さん。心から愛しています。この出会いに感謝して、歌でデッカいお返しが出来るようになりたい。。。いや!なります。これからも、どうぞよろしくお願いいたします。
PS. 私を見つけてくれた"うたナマハゲ"の青木さん、本当にありがとう。
大橋卓弥
僕達とオーガスタとの出会いはあるオーディションでした。
正確にいうと僕らが出演したオーディションがテレビで放映され、その中の僕らのパート(おそらく10秒、20秒くらいの一瞬だったと思う)をマネージャーが録画して、それを社長に見せたのがきっかけでした。
それを見た社長はシンタ君に「一度会ってみないか?」というメールをくれました。
僕達は正直その時オフィスオーガスタという事務所を知りませんでしたが、シンタ君から電話がかかってきて、「オフィスオーガスタってとこから連絡が来たんだけど知ってる?」と言われ、僕はちょうどその時山崎まさよしさんのビデオを見ていてそのエンドロールに「オフィスオーガスタ」という名前が流れてきたので、「今ちょうどその名前がテレビで流れてるよ!」とシンタ君に話して、始めて社長に会いに行くことになったわけです。
そんな不思議な出会いからもうオーガスタに入って12年、デビューしてから9年が経ちます。
デビューするまでもいろんなことがあったし、デビューしてからも本当に色んなことを経験させてもらいました。
今になって思うことは「オフィスオーガスタって本当に変わった事務所だなぁ」ということ。所属アーティストも本当に家族のように仲がいいし、スタッフもいい意味でバカばっかりで、現場でも笑いが絶えません。
それはやっぱりすべて社長の人柄がそうしているんだと思います。
社長の言葉にはいつも優しさと厳しさとそして少年のような純粋な音楽に対する想いが込められています。
社長はいつも等身大だし、時には友達みたいに接してくれたりします。
20年というのはやっぱりとても長い年月だと思います。
でも続いてきたことが全然不思議だなとは感じません。
何だかすごく納得できるんです。
そして当たり前のように30周年、40周年を迎える気さえしてきます。
僕達は社長をはじめとして、先輩たちに今まで本当にたくさんお世話になってきました。
もうそろそろ「今度は僕達が事務所を支えていく」くらいの気持ちも何処かに持っていなきゃななんて最近思ったりもします。
そしていつか後輩たちがそんなことを思い始めて、そうやってこのオフィスオーガスタの歴史がずっと続いて行く、それがきっとこの事務所の在り方だと思ったりしています。
常田真太郎
「オフィスオーガスタ 森川欣信」という宛名のメールを唐突にもらってから、もう12年が経つ。内容は今でもはっきりと覚えていて、メロディと歌詞についてのことと、スキマスイッチというユニット名が藤子不二雄っぽくて実に良いということが書いてあった。
それまで僕はオフィスオーガスタという名前をほとんど知らず、福耳というユニットも雑誌で見た時に「この3人仲良いんだ、すげー」なんてフツーに思ってた。後日、事務所まで話しに行くと、話の中でいきなりタクヤにアコギを渡し「じゃ、歌ってみて」と言われ、これがプロの世界なのかと驚嘆した覚えがある(僕はその場に鍵盤もなかったので手拍子をしていた訳だが)。
そうして入ったいわゆるプロダクションなのだが、正直なところ僕はプロダクションというものは自分で作ろうと思っていた。実際レーベルも2つやっていたし、いくつかのバンドはメジャーに行く話も少し上がってたりして、それならそのままプロダクションを作って事務所として動いてしまえばスキマスイッチも自分たちのやりたいことだけをやっていられると思っていた。
でも、あれから12年の月日が経ってみると、そういう考えは完全ではないにしろ、かなり変わった。言うまでもなく僕らが作っているのは「楽曲」だ。その曲一つにいろんなドラマが生まれ、そしてたくさんの人が関わって最終的には一人の人のもとへ行ったり、想像もしないような規模で認知されていったりする。その大元は全て一つの楽曲なのだが、そんな作品を生み出していくことはたくさんの信頼できる仲間がいればより楽しいものになる、そんなことをオーガスタは教えてくれた。もちろん他の事務所に所属したことがないので比べることは出来ないが、物事には比べるまでもないくらいのことだってたくさんあったりするのだ。
梶ヶ谷のマンションと駒沢のボロアパートでたった二人だけで始めたスキマスイッチだけれど、ひょっとしたらどっかのパラレルワールドで今もまだ二人だけで作業しているスキマスイッチもいるかもしれないと思ったら、この世界を選んで本当に良かったと心底思った。もしくはタイムマシンでもあればあの時の僕らに伝えてやりたい。その道で間違いないよ、と。
そういった訳で、ドラえもんではなくジャイアンの率いるオフィスオーガスタで、今日も僕らは楽しく楽曲制作をしている。これからもきっと、そうだと思う。
長澤知之
オフィスオーガスタは途中参加だけど、20年って凄いなって。
僕はTHE BEATLESを知った年だし、あの時からなのかと考えると不思議。
知らない部分もあるけれど、こんな音楽事務所が日本にあるって素敵だなと最近思う。
よく自分は「オーガスタっぽくない」なんて言われたりもするんだけど、どういうこと?って思う。
なんだか在って無いようなイメージの話だ。
在るとするなら、それはきっと各々が音楽を求めて探し続ける誠実な想いを言うのかな。
想いは伝わるなんて臭いこと言う気ないけど、聴いてもらえる人と結ばれるから続くんだと思う。
おかげで僕も音楽は人と人を結ぶんだって信じられる。
秦 基博
20周年、すごいです。
僕自身、音楽をやり続けることが唯一の目標なので、20年もの間、クオリティの高い音楽を世の中に発信し続けているオフィス・オーガスタを純粋にただただ尊敬していますし、掛け値なしに本当に素晴らしいと思っています。、、、と、自分の所属事務所のことなのに、どこか距離感のある物言いになってしまうのは、やはり僕がその20年の歴史の中に、たかだか5、6年しか居合わせていないからだと思うのです。
あの日、下北沢のライブハウスで見つけてもらったご恩を返すのはまだまだこれからでございます。
森川さん、杏子さん、ミュージシャンの皆さん、スタッフの皆さん、そしてそして、オーガスタの音楽を受け取ってくれた皆さんが築き上げてきたこの素晴らしい20年をこの胸にザクッと深く刻み込んで。さらに10年後、20年後、、オーガスタの一員として、今度は堂々と胸を張れるように、音にいそしみ、音を楽しむ所存です。これからもよろしくお願いします。そして、本当におめでとうございます。
さかいゆう
オーガスタ、不思議な事務所です、中にいてそう思うんだから。
社長のジャイアンこと森川のせいだ!
あの人は、みんなのことを家族みたいに思ってる。
だから、時にうるさいオヤジへと変貌する。
そして、誰もそのパッションに勝てない!笑
でも、文句はたまに言いあうけど、
不思議とジャイアンを悪く言う人は誰もいない。変な人だ。愛されてる。
僕が音楽を始めたきっかけになった人がいます。
高校の時の親友の三浦という男です。
彼とよくアパートの屋上やよく行く丘の上で歌ってた曲が山崎まさよしさんのOne more time,One more chanceでした。
彼と卒業式に歌った曲が、今はもう独り立ちされてますが、スガ シカオさんの夜空ノムコウでした。
その頃は、ミュージシャンにすらなってない頃なので、もちろんオーガスタって名前すら知りませんでした。
時を経て、自分の思春期の隣にあった音楽をつくってくれていた方々と、こんな風に一緒に仕事したり歌える日が来るなんて、
光栄だし嬉しいし、なんだか不思議な気分です。
これからもオフィスオーガスタをよろしくお願いします!